2007年9月3日月曜日

奥州街道と梅若丸 伝説








能、歌舞伎、戯曲などで、多くの題材に取り上げられた、梅若伝説は、室町時代の事ですが、古代奥州街道の隅田の渡で、起きた事件ですが、当時の軍事、政治、商業の重要な街道であり、武蔵、下総、日立への重要な交通の要所で、梅若伝説は、当時の社会状況から作られその後、境状況の変化で、多くの戯曲が作られました。 奥州街道については、現在関東北部から東北地方には、街道の旧跡が残されていますが、東京には、全く街道跡の形跡が残らされていません、室町時代の隅田川の渡しの地形など状況は推測の範疇に過ぎませんが、室町時代の隅田川付近の奥州街道と梅若伝説を考えて見ます。

奥州街道

奥州街道を考えて見ます、当時、隅田川の浮島に、浅草浅草寺が建立されており、なお上流の大地に待乳山神社も建立されていたようです、自然に砂利が堆積して堤のようになり、自然の堤に奥州街道が造られていたようです、古代の地形図などから見ると、現在の浅草橋付近から川筋に沿い造られ隅田の渡しを渡り、欧州、下総、日立の国に分かれたのですが、隅田川に橋が無く渡し舟で、往来していた理由は、一部では、軍事的意味で橋架けなかったと言う説も有りますが、当時の川幅が広すぎた事、当時の建築技術的な問題だったと思われます、川幅と川の流れの状況から現在の台東区橋場付近に渡し場が作られました、川の流れで堆積した石原が広がり渡し場が作り易さも理由もの一つだと推測できます、江戸時代には、橋場から浅草の付近は砂や砂利の採取の場所でした、又周辺の地形は、浅草浅草寺の裏手から現在の台東区の約5分の2程度の面積の広大な湿地帯で、そこに浮島が点在し北部の方は、川を境に現在の北千住の方まで、湿地帯が広がり、当時の奥州街道は、川筋に自然に隆起しできた堤に沿い、湿地地の周囲に作られていました、一方現在の墨田区側は、押上3丁目に飛木稲荷の境内に隅田川の堤の上に自然に生えて育ったと言われる、樹齢600年と言われる銀杏の木が有ります、川幅がこの辺まで有ったと思われます、当時は川と言うより海に流れ込む河口で有ったようで、墨田区と江東区の約半分程が海で迫っていたようです、又台東区、足立区は広大な湿地帯が広がり、武蔵野国と奥州の国、日立の国、下総の国往来するために隅田川を渡るには、橋場辺りしかなかたようである、現在の地形が形成されたのは、江戸時代大規模な干拓事業で形成され、新たに日光街道が整備され奥州街道に重複しながら造られた、室町時代の隅田川の地形は現在と大きく異なっていた、隅田川西岸の橋場の渡しは、大きな集落が有り、隅田寺が建立されていた、現在は、墨田区墨田5丁目移り多聞寺と改名されているが、真言宗の寺院が建立される程の大きな集落で、宿場であったようである、名称に付いては、色々の説が有り、隅田宿、橋場宿、関屋の里、千軒宿、などの説が有り、現在も橋場、関屋の地名が残されており、江戸時代に日光街道が整備され、現在の足立区の千住に移されたと言う説も有ります、奥州街道の隅田川付近で遺されている資料が少なく、多くの説が有りますが、推測の範疇で、確かなことは、武蔵野国の橋場の渡しは、交通の要所で有った事です、交易も盛んで有ったことも推測できます、しかし江戸時代になり、隅田川両岸の干拓事業が完成し街道が新たに、整備された事から奥州街道は、滅び去ってしまいました、奥州街道は、現在隅田川周辺では、形跡すら残されていません、東京都内では、奥州街道や日立の国へ向う街道の形跡は有りません、古代の人々がどの様な姿で、往来していたのか推測し思うしか有りません

梅若伝説

梅若丸は、北白川、吉田少将行房と美濃国上野の長者の娘、花御前の間に生まれ、父、吉田少将が亡くなり、比叡山月林寺に修行僧として上り、才知の誉れが高く、しかし当時の比叡山の座主を争う勢力争いが激しく、他の僧との争いに巻き込まれたと思われてと推測されます、僧兵による過激な争いが多事で、自らの生命の危機から下山し生家、北白川に逃れようとしたが、道に迷い琵琶湖の大津の浜に迷い着いたところ、信夫藤太と言う人買に、囚われ奥州に向かい連れ去られた、昔よく子供の戒めに、人攫いに、さらわれるよ、と言う言葉がありましたが、人を、さらい人身売買する犯罪が横行していたようである、梅若丸のようのに才知有る少年僧は、高価な商品と考えたのでしょう、幼い梅若丸には、過酷な道中で、疲れから病になり、隅田原橋場の渡しで、病が悪化し動けなくなた、すると人買、信夫藤太は.梅若丸を無常にも河原の草原に打ち棄てたと有ります、梅若丸の衣が川原の柳の木に絡みそれを里人が見て、梅若丸を見つけ手厚く介抱をしたのですが、最後に自分の身分告げ、「尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田河原の 露と消えぬと」と辞世の句を遺し12の生涯を閉じた、以上が梅若伝説の内容です。             

梅若丸の母、花御前は、梅若丸の失踪の事実知り、狂女とかし梅若丸を探しさ迷い隅田川西岸の渡しまでたどり着き渡し舟の上から対岸で、多くの里人が塚に法要する光景を見、隅田川の東岸に渡し舟を降り里人に塚のことを尋ねたところ、我が子の事実を知りい深く悲しみ、仏門に入り梅若丸の塚の側に庵を築き暮らしたと言われています、しかし塚の側の亀池の水面の我が子の姿が写るのを見て、その場で、入水し亡くなったとされています、亀の背に乗り水面に現れ、池の辺に塚を築き、妙亀塚とした、現在、池は無いが台東区の公園して、遺され妙亀塚が残されています、

梅若丸伝説は、能の隅田川として始めて題材に取り上げられた以来、歌舞伎や文楽など多くの作品が作られました、花御前の役では、六代目中村歌右衛門の当たり役でしたでした、

梅若丸が死んだのは何処か、色々劇化され現実の事実と異なる所も有ります、又色々の説が有り、推測でしか有りません、当時の宗教、世相、地形、政治、の観点から推測を考査してみたいと思います、当時、隅田川西岸、渡しの付近は、隅田川と広大な湿地帯に挟まれた隆起した石原でした、真言宗、隅田寺を配した大きな集落がありました、対岸、隅田川東岸は、農産物の生産をしていたようで、隅田川の両岸では、地形と土壌の条件が異なっていたようです、

宗教的には、隅田川西岸には、真言宗の隅田寺(現在の多聞寺)が建立されていたが、隅田川東岸には、寺院が無く、又民衆信仰の中で、川、池、などの水面を三途の川に見立て、拝むと言う行為が存在していた、現在、梅若塚は、隅田川東岸の天台宗、木母寺に有る、梅若伝説、真言宗と天台宗の問題点も存在するようです、当時、真言宗の隅田寺の方が、時の政権の加護が多く、しかし天台宗のは、天台宗の布教為に、北上し、隅田川東岸に、お堂を建立したと思えます、当時は、天台宗の布教の最北端と考えられます、梅若丸も天台宗の仏門に帰依した者である事が、謎解きの答えになる物と考えられます、政治的には、奥州交流が盛んになり、奥州街道の重要性が、高まってきていた。

代表的な説は、梅若丸は、隅田川東岸で死んだとされていますが、多くの物語が作られた時点で、現在の梅若塚の立地が東岸に築かれていた事から、物語が作られ、梅若丸は、東岸で死んだとされたと思われます、説の中に、「強欲な人攫いが、高い渡し賃を払い、重病の梅若丸を、東岸まで運び置き去りにするはずが無い、又当時の東岸には、集落が無かった、非情に不自然である」この説に興味を持てるものてるものである、現実には、梅若丸は、隅田川西岸の亀池の付近に棄てられ死んだと思います、東岸の堤の上の奥州街道から見える状況と推測できます、我が子を探し、さ迷う花御前が、里人が梅若丸の法要する、光景を、容易に確認できたと思えます、花御前が出家したとされていますが、当時、付近には、隅田川東岸には、寺院は、無く、西岸の真言宗の隅田寺のみであった事から、花御前が出家したのは、隅田寺と考えるのがだとうだと思われます、花御前が東岸の庵にいたとすると、渡し舟を使用し西岸に渡り、亀池行き入水したとされるのは、不自然かと感じます、天台宗の僧、忠円が、梅若丸を不憫に思い墓所を築き側に柳木を植えたと、木母寺の文献に残されています、梅若丸は、西岸で死んだのですが、不憫に思った天台宗の僧、忠円が墓所築こうとしたおり、西岸では、真言宗の隅田寺が有り、墓所とお堂を建立する為の条件がともなわなっかた為に東岸に立地を考えたと、推測します、 花御前は、真言宗の隅田寺で出家し梅若丸の死んだ場所に庵を築き住み、しかし梅若丸は、天台宗の僧であり、真言宗の門徒の母、花御前を一緒に供養する事が出来なかったと、考えるのが自然であると考えます。

隅田川を三途の川に例えて、西岸を現世東岸を浄土と考え、母を現世に置き梅若丸を浄土に置いて、母と子供の悲劇の物語を供養したしたのではないか、推測も出来るのではないでしょうか、

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